家族
自分を産み育ててくれた人達
生まれた時から一緒にいた人達
同じ家庭で一緒に育った人達
何もかもがまっさらな状態でこの世に生を受け
『わたし』と言うものを形成していく上で
大きな影響をうける人達
もちろん全ての人がそうではないだろうけど
ほとんどの人は
自分と言うものの土台
無意識に思い込む信念、常識みたいなもの
の形成に
家族との関係性や想いは大きな影響があるでしょう
表面に顕在化している思考だけでなく
無意識レベルで積み重なっているもの
その一つ一つにいい悪いのジャッジはないし
あるべきもの、あってはいけないもの
なんてものもないのはわかっているけど
日々過ごしていく中で起こる心のバグ
囚われる苦しさ
それは何なのか?と言うと
それは
この無意識レベルの思い込から来ているわけで
それを積み上げてきた『実家』『家族』
そこへの帰省では
心揺さぶれる気付きを得る事がよくあります
最初は
『私は愛されていない』
『望まれた存在ではない』
と言う思い込みが
(これ↑は結構はっきりと顕在意識にあったもの)
そうではない、私はちゃんと愛されている
とひっくり返す事ができて
ヤキモチを焼いて地団駄踏む
不貞腐れた子供のような想いから
派生した思い込みは
少しずつ手放せている実感がある
でも、まだまだ現実世界ではバグが起こる
(バグに見えているって事なんだけど)
と言う事は
その下には必ずなんらかの『思い込み』がある
その無意識下の思い込みに気づくのは
なかなか難しい事なわけですが、
実家への帰省、そこで心揺れた時
それは、無意識下の思い込みに気付く大チャンス
今年の気づきは
『お父さん、好きになれなくてごめんなさい』
と言う、深い深い罪悪感でした
いや、表面的には何となくあった想いなので
『気付いた』と言うと
少し違うのかもしれないけど
その深さが
私が思っていたレベルよりも
もっともっともっともっともっと深い所から
あった事を強く感じました
自分を産み育ててくれた最大の恩人である親を
『好きではない』
この罪の意識は
全ての人に対して『嫌いだな』と思う時にも発動する
『嫌い』
そこに、
=愛していない
=その人そのものを全否定
がもれなくくっつくからだ
年老いた両親
心穏やかに残りの人生をまっとうしてほしい
安心して幸せな気持ちで
できれば楽しいとか嬉しいとか
そんな瞬間も一つでも多く感じて欲しい
娘である私が
父に一番に愛情を注がれた私が
それを父に一つで多く感じさせてあげなきゃいけないのに
なのに
絶望的に気が合わない
価値観が違い過ぎて会話が成り立たない
全然おもんない
めんどくさい
てか嫌い
いや、合わせる事はできなくはない
パワープレイでそこに持っていく努力も
過去たくさんしてきた
けど、そんな無理くりの努力は
うまくいかない事も多いし
何より長続きしない
やっぱり合わないものは合わない
食べ物の好みのように
そこには何のジャッジも必要なくて
ただ単に『違う』と言うだけなのに
頭ではわかっているのに
無意識レベルのところにはしっかりと
愛情を注ぎ大切に守り育ててくれた人に対して
『その考え方嫌いやわ〜』
って思う事の罪の意識を
私は重ねて生きてきたんだな〜
と言う事に
お腹を下して早朝からこもったトイレの中で気付いて大泣きした
嫌いやわ〜
全然おもんないわ〜
それどうでもええわ〜
と
育ててくれてありがとう
愛情を注いでくれてありがとう
心穏やかに安心して余生を過ごして欲しい
は同時に存在していい
思い返してみたら
私の周りの人の中には
それが当たり前にわかっていたのだろうな
と思うような事が多々あった
うちの旦那さんは
お義母さんにめちゃくちゃキツい言葉でダメ出しする
平気で文句言うし
過去の恨みつらみを、お母さん含むみんなの前で発表してお義母さんを辱める
けど
頻繁に実家に顔を出して
いろんなお手伝いをして
お義母さんを助けている
私なら絶対にできない
やってしまったとしたら
もうその人と一緒にいるのが気まずい
弟のあの行動
義妹のあの行動
娘のあの行動
会社の同僚のあの行動
ああ〜そうだよな〜
みんな
嫌いだと思う瞬間
と
その人そのものを否定する事
は、当たり前に、イコールではくて
嫌い(と思う瞬間)
と
何かを共有したいと言う想い
が、
矛盾する事なく同時並行で存在できているんだ
そこに罪悪感なんていらない
心がまた一つ軽くなった
さあ、そろそろ布団から出て
父のいる居間に行こう
今日も死ぬほど価値観の違う
どうでもいい話をしてくるだろうけど
おもんないわ〜
それ、嫌いやわ〜
聞きたくないから逃げよう
って思うだろうけど
もう怖くない^ ^
だって
私は同時並行で
ちゃんとお父さんを愛せてるのだから